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龍源寺について

龍源寺の歴史

今から488年前(享禄3年頃)に現在の龍源寺敷地に𠮷田家のご先祖が小さいお堂を建てられ慶長年間まであったと言われています。その後409年前の慶長14年に𠮷田不説氏のご尊父が尾張国海東郡北間島村の現在の地に寺院を建立し、周辺の田畑5町歩を寄付し、現在の熱田区白鳥にある白鳥山法持寺から僧侶を招き入れたものです。宗派は、曹洞宗、山号は玉寶山,寺号は龍源寺です。※𠮷田不説氏は、名古屋城下に住んでいた学者であったと伝え聞いています。
当初は、住職は兼務の状況であったが暫くして大和尚(*2世)が住職に就いたとの記録がございます。
※昔は、前世には師匠を崇めるために、当初、禅室雲智大和尚は師匠 大和尚を住職に就いてなくとも一世にしたものである。現在、25世の住職であるが、4人ほどがそれに該当すると伝え聞いています。

現在は、25世 杉一 郎が住職についておりますが、順調に住職が寺を継いでいたとは言い難く江戸時代には無住の時期もあったと伝え聞いております。それは、寺を運営するにあたり、地元に檀信徒が4件、現在の港区南陽町小賀須に20件程の檀信徒による志納金の収入と小作からの米の年貢が入っていたが、寺を運営するには厳しい状況であったと言われています。文政年間に寺が荒れ放題になり存続が困難になったと言われていましたが、11世大円巴乗大和尚が現在の本堂再建の資金を確保するため、現在の東海四県を4年間托鉢に廻り本堂を再建したことが記録にございます。
このような住職を中興の祖と申します。その後の中興の祖は24世真瑛宗玩大和尚で檀信徒らの寄付の申し出がございましたが、自己資金と寺の資金で賄い寄付申し出者の思いを含め昭和62、63年に本堂、庫裏を再建いたしました。その後、寺院運営の一環として平成11年から従来の本堂西墓地に加え新たに平成10年に建設した本堂北墓地を宗旨・宗派を問わず個人を対象に墓地を提供し、現在に至っております。現在は、25世住職が本堂、庫裏などを長期保存すべく維持管理に努め、微力ながら機会を得ながら布教に努めている次第です。

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このような住職を中興の祖と申します。その後の中興の祖は24世真瑛宗玩大和尚で自己資金及び寺の資金で昭和62、63年に本堂、庫裏を再建いたしました。その後、寺院運営の一環として平成11年から従来の本堂西墓地に加え新たに平成10年に建設した本堂北墓地を宗旨・宗派を問わず個人を対象に墓地を提供し、現在に至っております。現在は、25世住職が本堂、庫裏などを長期保存すべく維持管理に努め、微力ながら機会を得ながら布教に努めている次第です。

曹洞宗とは

一般的に,皆さんに宗派を尋ねると自分のところは禅宗であると答えられる方が多いと存じます。禅宗には、曹洞宗、臨済宗(最も多いのが妙心寺派)、黄檗宗(おうばくしゅう)がございます。
日本の曹洞宗の開祖は道元禅師です。道元禅師は、京都の久我家にお生まれになり、京都の二寺院で修行した後、南宋に渡って諸山を巡り、曹洞宗禅師天童如浄により印可を受け、日本に帰り京都で興聖寺を開くが,後に越前に渡り寛元2年(1244年)大佛寺(後の永平寺)を開き曹洞宗を創られたものである。本尊は、南無釈迦牟尼仏で教義は、正伝の仏法を伝統として座禅の教えを拠り所とし、座禅の実践によって得る身と心の安らぎが、そのままの仏の姿であることを自覚することであります。曹洞宗の座禅は,修証一如(無限修行こそが成仏である)という道元の主張に基づいて ひたすら座禅することをもっぱらとしています。
なお、瑩山禅師が元享元年(1321年)に現在の能登半島先にある門前町に総持寺を開き、曹洞宗を広めることに努められました。明治31年(1898年)に寺院が焼失し、明治44年(1911年)に横浜の鶴見に総持寺が開かかれました。現在も曹洞宗を広めることをつとめ、門前町の寺院は総持寺祖院となって続いております。現在は、曹洞宗の本山といえば、永平寺と総持寺の二ケ寺となっています。

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日本の曹洞宗の開祖は道元禅師です。道元禅師は、京都の久我家にお生まれになり、京都の二寺院で修行した後、南宋に渡って諸山を巡り、曹洞宗禅師天童如浄により印可を受け、日本に帰り京都で興聖寺を開くが,後に越前に渡り寛元2年(1244年)大佛寺(後の永平寺)を開き曹洞宗を創られたものである。本尊は、南無釈迦牟尼仏で教義は、正伝の仏法を伝統として座禅の教えを拠り所とし、座禅の実践によって得る身と心の安らぎが、そのままの仏の姿であることを自覚することであります。曹洞宗の座禅は,修証一如(無限修行こそが成仏である)という道元の主張に基づいて ひたすら座禅することをもっぱらとしています。
なお、瑩山禅師が元享元年(1321年)に現在の能登半島先にある門前町に総持寺を開き、曹洞宗を広めることに努められました。明治31年(1898年)に寺院が焼失し、明治44年(1911年)に横浜の鶴見に総持寺が開かかれました。現在も曹洞宗を広めることをつとめ、門前町の寺院は総持寺祖院となって続いております。現在は、曹洞宗の本山といえば、永平寺と総持寺の二ケ寺となっています。

正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)

禅僧曹洞宗開祖道元禅師の2歳年長の弟子で、永平寺2世である孤雲懐奘禅師が記した曹洞語録書である。嘉禎年間に成立した。懐奘は約20年間にわたり師・道元に近時(随侍)し、道元が折にふれ弟子たちに説いた言葉や、道元との問答を克明に筆記したのが『正法眼蔵随聞記』である、懐奘没後に弟子たちがまとめた。 道元の人となりや『正法眼蔵』を理解する上での基本文献である。

「無益のことを行じてに時を失うことなかれ」
充実した日々を過ごしているだろうか
ただ年齢だけを重ねていないか
休みとなれば何となく過ごしていることが多くないだろうか
「身 初心なるを  ことなかれ」
経験、知識がないからかと気後れすることはないというお言葉、われわれの心をふるいたたせる。しかし、1度チャレンジしたからには初心忘れることなく初心を貫く決意が必要である。困難から逃げようとする心がまた、新しい困難を作り出すことを肝に銘じたい。